あれは 3 ⽉の昼下がり。すっかり寒さも和らいで暖かい⽇差しが窓から注ぎ込んでくる穏やかな春でした。電⾞に乗ったら本を読む癖のある私がその⽇選んだ本は、古書店で⼿に⼊れた昭和 7 年の写真⽤薬品の処⽅箋集というマニアックなものでした。

2000 年頃までの写真の多くは科学的な反応を⽤いたものであったためにプリントやネガの作成には写真⽤の薬品を使っていました。私はその中でも特に 1930 年前後の薬品事情が知りたかったので、もうすぐ 100 年になろうとするこの本を⼿に取っていたのでありました。
すると、その本の中から名刺判サイズの⼩さなネガが・・・
するり。

慌てて拾い上げたそのネガには⼆⼈の⼈物が写っていましたが、不明瞭であまりはっきりとは記録されている事柄が⾒えませんでした。そしてそれと同時に何かプリントをしなければならない、必要とされているような感覚を覚えました。
私はそこからの予定は全てキャンセルし早速プリントに取り掛かりました。幸い私の家には写真をプリントする設備が⼀式整ってありましたから簡単に取り掛かることができたのです。
私は FocomatⅡc と呼ばれるライカの引き伸ばし機を使うことにしました。Focomat はメカニカルオートフォーカスを搭載しており、プリント時のピント合わせが不要なシリーズです。中でもⅡc はブローニーの 6×9cm 判までのプリントができますから名刺判サイズのネガにはピッタリだったわけです。そしてライカのアートな写りのレンズで引き伸ばすことがこの写真には特にあっているように感じたからでもありました。

とにかくそんなわけで 8×10 (バイテン)サイズのバライタ紙に露光を開始しました。じっくり 20 秒の露光の当てられている最中の印画紙には先ほど⾒た⼈物が⼆⼈、しっかり映し出されていました。
そして露光の完了した第 1 回⽬のテスト。プリントを現像液へ。ぼんやり⾚く光る暗室の電球の下で次第にその⼆⼈の姿が明らかになってきます。

少⼥です。
尋常⼩学校に通っているであろう 10 歳前後の年頃の姉妹でしょうか、⼆⼈の少⼥。 満⾯の笑みを⾒せて、 仲良さそうに⼆⼈で寄り添って。
当時の幸せがまた今ここにも現れ始めたのです。私はなんとも⾔えないこの幸福感に包まれながらファインプリントを追求し始めました。決してプリントしやすいネガではありませんでした。 汚れていたり、 経年で銀が抜けていたり。

私は⼿始めにネガを再⽔洗しました。その後、 コントラストを調整します。その過程でふと気づいたことがありました。それはこのネガの保存状態です。ネガチヴフィルムは処理の過程で酸による反応を利⽤するため、⽔洗処理などを怠るとたちまち酢酸ガスを発⽣し、 ⾃⾝をダメにしてしまう。 仕事柄 1950 年前後のフィルムを⾒る機会が多くありますが、それですらすっかり酸でダメになってしまっています。しかし、それよりもさらに古いはずのこのネガはそんな素振りをも⾒せずしっかりと銀が定着していました。それだけ当時お⽗さんが⼤切に処理したことに気付かされました。そして私は写真の持つ⼒を再確認しました。ただその瞬間が残っているだけではない、その時の雰囲気やその時の叙情的なものまですべて届けてくれるような気持ちにすらさせられるわけです。

こうして 100 年前の幸せの⾹りはネガと共に私の元へ届けられたのです。