生成AIが芸術であるか否かの議論においてどこか懐かしさを感じる今日この頃。
それはかつて、写真という新しい表現が生まれ、その可能性が模索されていた時代。そこには、単なる記録媒体としてだけではない、芸術としての価値や、あるいはその逆の懐疑的な見方など、今と同様に様々な視点が存在していた。

今回は、シャルル・ボードレールのサロン評、イーストレイク夫人の美学、そして『フォトグラフィック・ジャーナル』にも焦点を当てながら、写真がどのように捉えられていたのか、その一端を考えていきたい。
ボードレールのサロン評:写真の芸術性を否定する
詩人であり批評家でもあったシャルル・ボードレールは、写真の芸術性に対して、より懐疑的な立場をとっていた。1859年のサロン評の中で、芸術とは人間の想像力や創造性が生み出すものであり、機械的な複製である写真は、その領域には属さないと考えていた。
「写真、このすべての芸術家にとって、この世のすべての怠け者と偽善者にとって、この世のすべての徒労者にとって、あまりにも熱烈に望まれているもの!」
「完全に芸術に取って代わってしまうか堕落させてしまうだろう。⼤衆の愚昧さのお陰である。」
ボードレールのこうした断言は、現代におけるAIに対する一部の感情、つまり機械に創造性が奪われるのではないかという恐れや反発に、どこか通じるものがあるのではないだろうか。

イーストレイク夫人の美学:美が芸術である
さて、写真芸術に関する初期の論評で、最も古いものの一つにイーストレイク夫人による考察がある。彼女は、写真に対して単なる技術的な記録以上のものを求めていた。彼女の視点からは、「現実」と「美」を異なるものと捉えていた。美は細部の工夫や知性に宿ると考えた彼女には写真はあまりにもリアルすぎたとも言える。つまり、写真を芸術とするならば、写真の中に趣味や、ある種の美的な感性が宿っているかどうかが重要だった。ただ写実的に再現するだけでなく、そこに作者の意図や感性が感じられるか、そういった点が評価の対象となっていたのである。

フォトグラフィック・ジャーナルにおける指摘
1862年5月15日号では次のように書かれている。
つまり、芸術であるかどうかは、それによって芸術作品が生み出せるか否かであるのだ。では、芸術とは何か、ということは今後の写真史の中で展開されるのである。
さいごに
イーストレイク夫人の美学、ボードレールの芸術観、そして、フォトグラフィックジャーナルでの説。これらの初期の写真に対する多様な捉え方は、写真というメディアが持つ多面性を示唆している。そして、この「写真は単なる記録か、芸術か?」という問いは、形を変えながらも、現代のAI芸術論にも受け継がれているように感じないだろうか。
写真が歩んできた歴史におけるこうした議論を知ることは、私たちが今、AIとどう向き合い、芸術をどう捉えるか、それを示唆している。
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